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身をもって、醍醐味を知る。

  • 執筆者の写真: 嘉孝 井上
    嘉孝 井上
  • 6月3日
  • 読了時間: 4分

更新日:6月6日

二か月に一回は記事を更新しようと心掛けてきたものの、すっかり久しぶりの更新になってしまいました。


今年も少しずつ日差しが強くなってきましたので、風が心地よく感じられる今のうちにと、また大学院生たちと一緒にフィールドワークに行ってきました。

今回は、京都市伏見区の醍醐寺から上醍醐へと向かいます。


京都市伏見区に位置する「醍醐寺」は、弘法大師・空海の孫弟子である理源大師・聖宝によって、貞観16年(874)に開創された真言宗の寺院です。世界文化遺産となっている醍醐寺の伽藍や三宝院の庭園が醍醐山の山裾にゆったりと広がっています。そして、その裏手から一時間以上も険しい山道を登ってゆくと、醍醐山の山頂付近にいくつかのお堂が点在しています。その一帯が「上醍醐」です。


醍醐寺の参拝もさることながら、今回のフィールドワークの一番の目的はこの「上醍醐」に足を運ぶこと、そして、そこで湧き水を飲むことです。この湧き水、醍醐水が「醍醐味」という言葉の語源なのだとか。水の醍醐味を味わうために、山を登ります。


この日の最高気温は22℃、幸いにしてこの時期にしては涼しい気候で、山の中はひんやりとしてとても気持ちよく感じられます。川の流れや鳥の声を聞きながらゆっくりと登ります。とはいえ、しっかりとした登山姿の参拝者の方もおられるくらいに、山道はなかなかに険しくて、日ごろの運動不足が身に沁みます。


そして、ようやくたどり着いた上醍醐と醍醐水。かつて醍醐山を訪れた聖宝の前に白髪の翁の姿をした横尾明神が現れ、この水を味わい感嘆する様子を見た、とその由来が伝えられています。飲んでみるとやわらかい水で、何度か繰り返し味わっているうちに甘味を感じたのは気のせいでしょうか。大学院生さんたちの反応は人それぞれでしたが、渇いた喉を有難く潤してくれることは間違いありません。

私たちの身体は水に満ちていて、水を必要としています。


精神科医で精神分析家でもあったマイケル・バリントは、根底的な心理療法のあり方のひとつを表現するイメージとして「魚を支える水のごとく」という比喩を用いています。水に支えられて、水の中で、魚は生きて、成長していきます。魚と水は調和しています。そして、魚はそのことをあえて意識する必要がありません。分別や対象化以前の世界です。


人間も魚と同様、水が必要不可欠ですが、かろうじて魚よりは水を対象化しています。しかし災害時でもない限り、現代の日本社会で生きているとき、水そのものの意味を身をもって知ることのできる機会はそれほど多くありません。


思えば、魚や私たちだけでなく、この山そのものも水に生かされています。今回のフィールドワークでもう一つ印象に残ったのが、至る所で植樹がされていること。台風の被害などで倒れた木々のあとの土地に、あるいは五重塔の傍らに、人びとがそれぞれの思いをもって、木を植えています。長い時間と水の力で、またそれらが大きい木に育っていくことでしょう。


そして山道をたくさん歩いて、また現実世界に戻ってきました。今回は上醍醐まででしたが、その先には修験道の行場もあるそうです。くたくたに疲れた帰りの駅では文明の利器がどれだけ有難いか、深く実感させられたものでした。自分の足も労います。醍醐味とは旨みや味わい深さを意味しますが、普段当たり前になっているものが改めて有難く感じられることも、これまた醍醐味が意味していることのひとつだと言えるかもしれません。


心理療法では言葉が大切にされます。上滑りするような言葉ではなく、腑に落ちる言葉が大切になります。言葉の本意をどれだけ深く味わえるか、またそこに含まれたイメージをどれだけ豊かに感じられるか、そうしたことに力が尽されます。言葉をできるだけ大切にして、さらに言葉にならないものも尊重します。そうした日々の心理臨床の営みと関わるのが、身をもって語源を辿る今回のフィールドワークでした。


<参考文献>

Balint,M. (1968). Basic Fault:Therapeutic Aspects of Regression,Tavistock Publications.中井久夫訳(1978)治療論からみた退行.金剛出版.


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