立ち位置を変えると、視野が広がる
- 嘉孝 井上
- 11月1日
- 読了時間: 3分
今日から11月となりました。
先日、秋の休日を利用して、五山の送り火で有名な大文字山(京都市左京区)に登ってきました。
銀閣寺側からは何度か登ったことはあったのですが、今回は蹴上駅からインクライン、日向大神宮を経て、京都一周トレイルのコースを辿ります。大文字の裏側から「大」へと至るルートです。
このところクマ出没のニュースが日本中で話題となっており、京都近郊でも目撃情報が出ているので少し緊張しますが、早朝にもかかわらず、登山客も多く、トレイルランナーもちらほら。みなさん軽快に歩き、走っていきます。気持ちのよいものです。
しっかりした山道でしたが、ゆっくり歩いても2時間弱ほどで大文字山の頂上に到着しました。ここで、しばし食事と水分補給のための休憩時間をとります。元気がみるみる回復しました。
普段はあまり気づかないことも多いですが、山に登ると休息や補給の大事さを痛感します。心身を働かせ続けているとき、ちょっとでも一休みしたり、少しでもエネルギーを取り入れたりすることで、ずいぶん回復するのでしょう。登山用語で「シャリバテ」と呼ばれる、エネルギーがすっかり切れた低血糖状態になってしまうと、そこから補給をしても、なかなか回復しないのだそうです。だから、こまめな休息と補給が大事。これは日常でも同じことなのだろうと思います。
さて、送り火の火床まであと少し。元気を回復して、いよいよ「大」を目指します。
野鳥の声を聴きながら、明るい山林のなかをしばらく下っていきます。すると、ぱっと「大」の文字のてっぺんに抜け出します。
眼下に京都市街を一望できる、素晴らしい景色が目の前に広がります。
私たちは地上から送り火を見上げますが、これは送り火の側から見た京都の景色です。
考えてみれば、京都市内の至るところから「大」が見えますね。ということは、「大」の側に立ってみれば、京都市内の至るところが見渡せるというわけです。
しかし、この景色は実際この場所に立ってみないと、なかなか想像できません。あるいはこの視点を想像できたとしても、それはこの場所から見た体験とは別物だといってよいでしょう。大文字はこんなふうに私たちを見ていたのかと、はっとさせられました。
私たちは普段、自分の立場から様々なものごとを見ていますし、体験しています。私には私の、相手にはその人なりの視点があります。その視点を少し変えて見てみようとしても、自分の目線を離れるということはなかなか難しいものです。ましてや、人がどのように見えているかを本当に知ることは、たいへん難しいことです。せめて、あの場所からの景色はどんなものだろうと、わずかなりとも想像してみたいものです。想像力は他者への共感の始まりになるのではないでしょうか。
さらに、カウンセリングのなかでは、苦しい状況に陥ってこそ初めて見えてくるものがあるのだということをしばしば経験します。病を得たから、何かを失ったり手放したから、年を重ねたから、自分の立ち位置と視点が変わり、見えてくるものがあります。あるいは、真っ暗闇のなかだからこそ、星や月の明かりも感じることができますし、長いトンネルを抜けたからこそ見えてくる景色もあります。そこに至るまでの道のりを同伴するのが、カウンセリングというものでしょう。
そんなことを考えながら大文字山を下って、銀閣のほうに降りていくと、にぎやかな観光客たちと出会いました。世界各地から京都を訪れている人たちです。そういえば、「旅」というものも私たちの視点を更新してくれるものですね。リフレッシュでもあり、良い経験でもあります。こうして時々自分の日常的な視点を離れてみることは、私たちが生きていくうえで、やはりとても大事なことなのでしょう。


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