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見えない不安と共にいるために ― こころと身体の実感

執筆者の写真: 嘉孝 井上
嘉孝 井上
10月24日
読了時間: 4分

ここ最近、企業や病院、大学や自治体などがサイバー攻撃を受けた、個人情報が流出した、といったニュースを目にすることが増えました。パスワードを見直す、不審なメールを開かない。個人でできる対策はたしかにあります。けれども、そうした対策をしてもなお拭いきれない不安が残る方も多いのではないでしょうか。


自分の名前や住所、買い物の記録や誰かとのやりとりが、自分の手の届かないどこかに保管され、知らないうちに動いているかもしれない。しかも、その出来事は目に見えず、音もせず、痛みもありません。

こうした不安の特徴は、「輪郭がない」ことにあるように思います。目の前に危険があれば、私たちは身構えたり逃げたりできます。しかし、どこにあるのか、どれほど大きいのか、実体が何なのかわからない不安は、こころの中で置き場所を見つけられず、漠然と広がっていきます。そのどうしようもなさに、無力感も覚えます。


もちろん、インターネットがもたらしたものは計り知れません。遠く離れた人と言葉を交わし、さまざまな知識に触れ、仕事や経済もその上で動いています。カウンセリングの世界でも、オンラインでの相談を多くの方に届けられるようになりました。


ただ、私たちの暮らしの多くが、目に見えないネットワークの上に成り立つようになった今、ふと足元を見たときに「自分はいったいどこに立っているのだろう」という心もとなさを感じることがあるかもしれません。便利さと引き換えに、私たちは確かな土台や「手ざわり」のようなものを少しずつ手放してきたのではないか。そんなふうに感じることがあります。


カウンセリングの場では、日々、ある意味でとても素朴な営みが続いています。

同じ部屋で、目の前の方と向かい合い、じっくりとお話をうかがいます。言葉だけでなく、声の調子や、ふと訪れる沈黙、言葉にならない時間も、大切な何かを運んでいます。

ときには、砂のうえで箱庭をつくったり、絵を描いたりします。砂の冷たさや重さ、指先の感触、クレヨンの香り、色鉛筆が紙をこする音。そこでは、言葉にならないような思いやイメージが、目に見え、手で触れられるもの、身をもって感じられるものとして、そこに現れることがあります。

そして、カウンセリングの最後には、料金を紙幣でお預かりしています。その方が働いて得た、あるいは大切にやりくりしてきたお金が、手から手へと渡されます。数字が画面上で動くのとは少し違う、その重みを、いつも受け取っているのだと感じています。電子決済ができず、時にご不便をおかけしていますが…。


こうした営みを、「昔ながらのやり方がよい」という懐古として語りたいわけではありません。

ただ、輪郭のない不安が広がる時代だからこそ、時間をかけた、こころと身体が伴った経験が、私たちにとっての確かな「土台」になるのではないか、自分という感覚を取り戻すのではないか、と考えています。おそらく、それはカウンセリングに限ったことではないでしょう。


不安そのものを消すことは、おそらくできません。世界の大きな動きを、一人の力で変えることも困難です。けれども、「今ここに、自分がいる」という確かな感覚があれば、不安を抱えたままでも立っていられるのではないかと思います。誰かと同じ場所で時間を過ごすこと、手を動かして何かをつくること、身体で感じること。そうした経験は、見えないものに揺さぶられるこころを、そっと地面につなぎとめてくれるのではないかと考えています。


心理療法の世界では、こころの中にあるものが、イメージやかたちを通して表れ、少しずつ受けとめられていくことを大切にしてきました。輪郭のない不安も、語られ、描かれ、置かれることで、ほんの少しずつ輪郭を持ちはじめます。輪郭を持った不安は、扱うことができるものになります。


みなさんの日常でも、たとえば、画面から少し離れて散歩をして季節の空気を感じてみるとか、料理や手仕事など手を動かす時間をつくってみるとか、そんな小さなことが、自分の足元を確かめる助けになるかもしれません。

と、私はこの記事をお昼ご飯を食べながら書いています。ここまでキーボードを打ちながら、そういえば、いつもより味を感じていないということに気づきました…。三食、ちゃんと味わうことも大事かもしれませんね。


急がずに、ご自身のペースで、こころと身体の声に耳を傾けてみてください。



 
 
 

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